中国ロックの足音が
すぐそこまで来ている
「Asian Experimental 100 people」を立ち上げるにあたり一人目のインタビュー対象者はとても重要なので、思い込みや感情で決めるのではなく、戦略的に選定しなければならないと考えていた。一方で、この人以外はありえないだろうという直感もあった。
阿佐ヶ谷駅南口から徒歩3分、アーケード街で中国のインディーズ文化を発信するスペース「mogumogu records」を運営する、蘑菇(読み:もぐ)氏。
ここでは、主に北京を中心とした中国の大量のレコード、CDが整然と並べられ販売されている。さらに店内にはちょっとしたライブスペースもあり、毎日のように国内外のアーティストによるライブが行われている。
基本的にインディペンデントかつアンダーグラウンドな文化を扱っているが、店内は至って清潔でクリエイティブな雰囲気が漂う。おひとり様でふらっと入っても安心して滞在できる絶妙なバランス感覚だ。
令和5年現在、アジアのインディーズ・ロックがアーリーアダプター層を中心に聴かれているといえど、主には台湾で、次いでタイ、インドネシア…という肌感の人も多いだろう。そうした中、あえて中国の文化を先陣を切って持ち込んだのはなぜだろう。彼がこれまで見たものとは。この会話は、蘑菇氏の少年時代まで遡りはじまった。
通訳協力:Tomo(Caravanity)
蘑菇.Mogu(読み:もぐ)
中国青島市出身。1979年生まれ。2003年、北京の旧鼓楼大街に「摇篮 ROCKLAND」を開店以来、北京市内でインディーズ文化の交流・発信の場となる「69cafe」「mogu space」など北京内外の著名なミュージシャンが立ち寄る拠点を運営する他、カーシック・カーズのマネージャーや音楽フェスティバルの開催や自身が運営するmogumoguレーベルのリリース、中国国内ツアーなども手掛ける。2022年に日本へ移住し2023年3月に「mogumogu records」を開店。
『ロック・北京』に導かれて
──Moguさんの少年時代、1990年代から2000年代といえば、中国がまさに近代化していく最中だったと思います。どのような経緯でロックの世界に足を踏み入れたのでしょうか。
私は青島市の生まれで、医者の父と専業主婦の母、兄と妹という家庭で育ちました。家庭の音楽環境としては、ジャッキー・チュンなど台湾・香港ポップスがテレビで流れているという平均的な環境だったと思います。転機は14歳のころ、たまたま出かけた山東省煙台市の街で売っていたコンピレーションアルバム「ロック・ペキンII」(1994・中文:搖滾北京II)のカセットテープに触れた時です。北京ロックの源流は改革解放後の1980年代ごろですが、そこから1990年代にかけて結成されたさまざまなバンドの音楽が収録されているものでした。
アートワークがそれまで聴いていた流行音楽とは異なる雰囲気に惹かれ、買って聴いてみると、自分の知らない世界が広がっていました。そこから中国のロックをどんどん聞くようになっていったのです。
──アートワークがロックの世界との接点になったと。後にデザインを志す、Moguさんらしい出会いですね。
大学進学を機に北京へ出ると、更に世界が広がりました。北京では多くの打口商品※1を販売する業者がいて、当時グラフィック・デザインを学ぶために通っていた大学の正門前に打口のCDやカセットを販売するお店が来ていたんです。警察が来ると店じまいするような移動商店ですね。はじめて買った西洋音楽のアルバムはザ・カーズ※2の『キャンディ・オーに捧ぐ』(1979)でした。
※1 打口とは:主にアメリカから中国へ廃プラスチックの名目で輸入され、パッケージの一部に穴が空けられた状態で販売されていたCDのこと。
※2 リック・オケイセックが率いるアメリカのニュー・ウェイヴ・バンド、ザ・カーズの『キャンディ・オーに捧ぐ』(1979)
──実物、はじめて見ました。海賊版をイメージしていたんですが、状態がきれいで豪華ですね。
デザインを学ぶ大学生に向けて「ほら、これが西洋の最新鋭のアルバムジャケットですよ、かっこいいでしょう?」という商売だったんでしょうね。
──CDやレコードが、音楽のみならずアートワークも含め西洋文化のパッケージを運ぶ役割を果たしていたんですね。
カーシック・カーズ以前、
北京のシーンの3大勢力
━━さる11月1日に東京・渋谷のWWW Xで初来日公演を行った、北京オルタナティブロックの始祖であるカーシック・カーズの結成が2004年。Moguさんが「摇篮 ROCKLAND」を開店したのが2003年。カーシック・カーズ以前の北京のシーンについて教えてください。
シーンの構造に触れる前に重要なのは、当時の北京にあった「北京迷笛音楽学校」という音楽学校の存在です。ロック音楽を教える学校で、そこから様々なバンドが出てきていたんです。1990年以前は西洋ロックの模倣が多く、実験的な要素や独立音楽の要素は少なかった。ライブハウスは二軒で、ロックバンドは「無名高地 No Name Land」、パンクバンドは「嚎叫倶楽部 SCREAM CLUB」に出演するという棲み分けでした。「無名高地」は五月天が初めて北京でライブをした場所としても有名ですね。
━━西洋の模倣でも、若者には新鮮に映っていた。
2000年ごろから、「地下フォーク」と呼ばれる北京オリジナルのジャンルが出現します。彼らはギターを片手にミュージック・パブで演奏をする。当時は今ほど若者文化に対しての厳しい風潮ではなく、のびのびと活動していた時代だったと思います。
“ショウワンとはこれといった雑談もなく、出会ってからしばらくは店員とお客という関係性でした”
Mogu
カーシック・カーズを機に発展する
北京のオルタナ文化
━━カーシック・カーズとの初対面について教えてください。
私が開店した摇篮 ROCKLAND1号店では主に中国のアンダーグラウンドのCDや雑誌、Sonic Youth、Nirvanaなど海外の打口商品を扱っていました。昼間は広告会社でデザインの仕事をし、夜にお店を開くという生活でした。そうした中、2003年、SARS禍の真っ只中でお店に来てくれていたのが、カーシック・カーズ結成前で高校生だったショウワン(張守望)です。
━━本当に長い付き合いですね。最初から気が合ったとか?
いえ、ショウワンは物静かな印象で、これといった雑談も特になく、出会ってからしばらくは店員とお客という関係性でしたね(笑)摇篮 ROCKLANDは2004年に引っ越すのですが、新しいお店にもよく遊びに来てくれて、その時期から少しずつ話すようになり、ギターソロでライブをやるようになってから、少しずつ仲良くなったんです。
━━今、阿佐ヶ谷のお店でもライブができますが、摇篮 ROCKLANDにもライブができるスペースがあったんですね。
アメリカから来たMichael Pettisが2007年にMaybe Mars Records(兵马司唱片)を設立し、第一号としてjoysideの「Booze at Neptune’s Dawn」がリリースされ、次いでカーシック・カーズのファーストアルバム「CAR SiCK CARS」を手掛けることとなりますが、そうしたMaybe Mars周辺のアーティストも続々と出演してくれました。
バンドマンは主に北京市内の新街口にある楽器屋で機材を揃え、Maybe Mars 兵马司唱片によるライブハウス「D22 Club」もオープンし、オリジナリティのあるバンドが続々とライブをするヴェニューとして発展していきました。
━━街全体が活気づき、北京のオルタナ文化が育っていったと。その後Moguさんは音楽フェスティバルを主催するなど、活動の幅をどんどん広げていますが、そうした中で海外勢との関わりも増えてきましたよね。
そうですね、台湾出身でいっときカーシック・カーズのメンバーとして活動していたリン・イーラー(skip skip ben ben)が3ヵ月くらい私のお店で働いたり、ライブをしたりしていましたね。彼女の仕事ぶり?そうですね…ライブの出来栄えは非常に素晴らしく、やはりミュージシャンはミュージシャンなんだな、と。他に台湾のバンドで言えば、白目樂隊がツアーで立ち寄ったり、香港のmy little airportと工工工のメンバーが遊びに来たりと、中華圏のバンドがつながる場所にも成長していきました。
━━蘑菇さんが北京を発つ前、2020年代にかけてはどのような状況でしたか。
シーンが成熟するとコモディティ化するものですよね。その後はポップなバンドが多く出てきた印象です。またライブハウスのハード面が進化し、大人数を収容できるようになったのはビジネス的には良い反面、アーティストが払う会場使用料も高騰するので、新しいバンドの表現の場所としては難しくなってきているのかもしれません。小さいパブなどは昔と変わらず、ノルマなしでやっているようですけれどね。
━━20年以上ものキャリアがあり、中国での活動が順調な中で、なぜ日本への転居を考えられたのでしょう?
2016年にショウワンとザ・ガー(嘎调楽隊)のドラム 王旭によるエレクトロニック・ユニットwhite+と一緒に東京ツアーで来たときに、閃いたんです。「例えば東京でお店を開いて、店舗の管理は日本語のできる友達に頼んで、中国の音楽を日本で広めることができないだろうか?」と。その後毎年一組ずつ、中国のアーティストを連れて日本でライブするようになってからだんだんとその思いが強くなって。それで2019年の年末に東京を訪ねた時ついでに一つの物件を見学したんです。高円寺のある商店街の二階にり、狭いけれど賃料がお手頃だったので、中国からのアーティストたちの拠点にしようと考えました。しかし北京に帰ったらコロナのパンデミックが起こってしまうことになるとは思いもせず。そうしているうちに二年も待つことになり、このままだと色々間に合わないなと思って2021年末から日本で店を開く計画を立て2022年にビザがおりると同時にすぐ来日しました。
━━2023年夏に元・幾何学模様のDaoud AkiraさんとダンサーのChikakoさんによる快眠亭の中国ツアーマネージャーを務められたそうですが、成功する確信があったのでしょうか?
もちろんです。5月にTHE 天国畑 JAPONのライブでAkiraさんと出会いましたが、ギターとダンスが一緒にライブをするという珍しいスタイルで、こうしたアーティストは北京にもいないので、これは成功するだろうという確信があり、私からオファーしたところ喜んで受けてくれました。mogumoguレーベルのアーティストの中国ツアーをしていた人脈でブッキングはそれほど苦労しませんでしたが、日本人ミュージシャンのツアーをやるのは初めてで、良い経験になりました。中国政府への申請には、当日の演奏の映像を動画に撮り、歌詞がある場合は歌詞も全て翻訳して提出する必要があります。今回快眠亭のツアーでは落語が2編という構成だったので、台詞の一言一句、全てを翻訳するという。
━━落語の翻訳はとてもハードルが高いですね! 当日のライブで話すMCの内容も申請時に伝えてチェックされるとも聞きました。そんな高いハードルを乗り越えて行われたライブですが、現地の反応はいかがだったでしょうか。
幾何学模様の影響力もあってかもしれませんが、かなり新しいスタイルにも関わらず、上海では500人以上ものお客さんが入ってくれて、2人にしっかりとギャランティも出せて安心しましたね。何より2人のアーティストとしての吸引力を感じました。ある会場では、日本語がわかる中国人が、隣の人にいる日本語が全くわからない人のためにずっと通訳するという現象も起きていたんですよ。
━━今後も日本のアーティストに可能性を感じていますか?
ええ、次に中国へ連れていきたいバンドがいるので、準備を始めています。ちなみに…日本の方々は本当に時間通りに行動してくれるのでとてもありがたいです(笑)
世界中のインディーズ文化が行き交う場所へ
━━mogumoguを阿佐ヶ谷に開店して半年が経ちました。どんなスペースになっていますか?
中国、主に北京のアーティストが来て日本のアーティストと交流したり、日本のアンダーグラウンドで活躍するミュージシャンたちが来てくれました。坂本慎太郎さんなどアンダーグラウンドの大物たちもよく利用してくれています。そして、お客さんは中国ロックが好きな方だけではなく、地元の方や中国からの留学生も混ざり、まさに文化の交流基地で新しい拠点になっていると思います。
私自身は日本語は勉強中でむずかしいことも多いのですが、北京と日本をつないで、新しい価値を提供することができているのかなと。
━━名実ともに中国のカルチャーを発信する地点として急成長しているのかなと思います。ここまでの成功要因はなんでしょう?
結局長年インディーズ音楽関連の仕事をしてきたのが大きいですかね。今年でちょうど20周年です。それと7年前から毎年一組の中国アーティストの東京ライブを組んでいることも多分多少関係があります。東京のmogumoguは、チケットノルマもない会計方式なので、どの国のインディーズアーティストにとっても利用しやすいと思います。なるべく多くのアーティストに出演の場を提供して、自分もライブを楽しむこと。それが私のやりがいなんです。
━━最後に、今後はmogumogu recordsをどんな形にしていきたいですか。
まずは日本のバンドがたくさん来てくれると良いですよね。mogumoguはチケットノルマなしですので、ライブがやりやすい環境ですから。それから台湾、タイなどアジアのバンドも来てほしいし、いずれアメリカやヨーロッパのミュージシャンも多く立ち寄ってもらえたらいい。独立精神のある面白い音楽を起点に、交流が生まれるになれたらと思います。
━━日本は様々なアーティストが立ち寄りやすい環境ですから、新たな流れが起きそうですね。ありがとうございました。
PR:出演者募集
mogumogu records
住所:東京都杉並区阿佐谷南1-36-15 マガザン阿佐ヶ谷 3F
営業時間:13:00~24:00 不定休
連絡先:Instagram
※ちなみに、1969はmoguさんの生年ではありません、私はもう少し若い!とのこと。